ラーニングフルエイジング プロジェクト - 高齢化社会に向けた学びの可能性

研究会
開催日:2015年3月18日

第7回 ラーニングフルエイジング研究会
「高齢者とワークショップ」

学び続け成長する存在としての高齢者、その学習にはいったいどのような課題があり、それに対して私たちはどのような方法をとりうるのでしょうか。ラーニングエイジング研究会は、ミネルヴァ書房から2015年度刊行予定の書籍『ラーニングフルエイジング−超高齢社会における学びの可能性−』(仮題)との連動企画です。本研究会は、超高齢社会における学びの可能性について様々な研究者と話し、多角的に考えていきます。

第7回の公開研究会は3月18日に福武ホールで開かれました。第7回研究会では、高齢者の学習スタイルの一つとして「ワークショップ」に着目し、演劇ワークショップのような身体を用いた活動、多様性を積極的に取り入れた活動、哲学対話のような対話を通した活動を5名の講師よりご紹介いただき、参加者のみなさまとの議論を通して、高齢者の学習はどのような方法をとりうるのかを検討しました。

第7回研究会の様子

【第一部:身体とワークショップ】

1.「高齢者とインプロワークショップ――日本とアメリカの事例から」
園部友里恵(東京大学大学院教育学研究科/博士課程)
2.「えずこホールでの取組と熊本での取組の紹介」
柏木陽(特定非営利活動法人演劇百貨店/代表理事)

【第二部:多様性とワークショップ】

3.「多様性を価値にするワークショップ」
山田小百合(特定非営利活動法人Collable/代表理事)

4.「多世代がともに学ぶカフェイベント――『UTalk』を事例として」
宮田舞(東京大学大学院学際情報学府/博士課程)

【第三部:対話とワークショップ】

5. 「高齢者との哲学対話――その可能性と課題」
梶谷真司(東京大学大学院総合 文化研究科/准教授)


1.「高齢者とインプロワークショップ――日本とアメリカの事例から」
園部友里恵(東京大学大学院教育学研究科/博士課程)

園部さんは東京大学大学院教育学研究科に所属し、生涯学習と演劇教育について研究を進められています。テーマは「インプロを活用した高齢者の学習に関する研究」で、ご自身で実践も行っています(「即興実験学校」http://improlabo.org/)。

インプロとは、台本も事前の打ち合わせもない中で、その場で起こったことに目を向けながら、物語を生み出していく即興演劇のことです。今回は、高齢者対象のインプロワークショップを行っている2つの事例についてご紹介いただきました。

1つ目は、アメリカ・カリフォルニア州オークランドのシニアシアターカンパニー「Stagebridge」です。パフォーミングアーツを通して高齢者の生活やコミュニティを変容させることをミッションに、高齢者対象の多様なパフォーミングアーツクラスの開講や受講者によるショーケース実施の機会を設けています。主なジャンルとして「アクティング」「ストーリーテリング」「インプロ」「歌・ダンス」の4つがありますが、今回は特にインプロのクラスについてご紹介いただきました。インプロクラスの講師が高齢者にインプロを教える上で心掛けていたのは、ゆっくり進め、繰り返すこと(1回のクラスの中で新しいことをいくつもやらない)や、転倒の恐れがあるような激しいものは行わない、しかし、高齢者扱いはしないということ、そして、1つ1つのゲームやシーンの後にはふりかえりの時間をとるということでした。高齢者は身体でやったことを言葉で理解するので、言語化の時間をとるようにしているのだといいます。

2つ目は、日本・千葉県柏市の生涯学習セミナー「豊四季台くるるセミナー」でのインプロ講座です。豊四季台団地は、高齢化率が40%を超えるという深刻な高齢化に直面しており、また独居高齢者も多く暮らしているところです。園部さんは2013年から豊四季台団地においてインプロの講座を行っています。1講座につき3~4回の連続講座で、参加者数は約20名、年齢は65~88歳の方が参加しています。現在、この講座参加者をベースに高齢者インプロパフォーマンス集団の立ち上げ準備を行っているとのことです。

2つの事例を通して高齢者のインプロを通じた学びを考えたときに、①意外とできることに気づく、②意外とできないことに気づく、という2点が見えてきたと園部さんは言います。インプロという場で、高齢者の気づきは身体と大きく関わっており、老いに伴って変化していく自身の身体と、他者を介して向き合っているのではないかと指摘されました。教育学や社会学の考え方を援用すると、これは、個体として身体を捉えるのではなく、関係態として捉えるということです。また関係態として身体を捉えると、できないということが必ずしもネガティブなものではなく、できないということ自体が他者とのかかわりを生み出すものとなります。その結果、身体の良し悪しが問われなくなってくるのではないかと園部さんは考えています。

最後に園部さんは、ワークショップは、高齢者の個体的身体、関係態的身体、双方を共存させられる場として働くものであり、講座形式や、メンバー固定のサークル活動との中間にあるようなものとして位置づけていきたいと展望を述べ、講演を締めくくりました。

参加者の皆さんからは、日本で即興演劇をするときのハードルや、柏市での実践の具体的内容等について質問があり、質疑応答が行われました。


2.「えずこホールでの取組と熊本での取組の紹介」

柏木陽(特定非営利活動法人演劇百貨店/代表理事)

柏木さんは普段「子どもと一緒に演劇をつくる」ことに取り組んでいます。本発表では、宮城県仙南地域にある「えずこホール」と、熊本県立劇場での高齢者対象の取り組みについて紹介していただきました。

えずこホールでは様々なプログラムが行われていますが、これまで高齢者向けのものはありませんでした。そこで始まったのが、「60歳からの楽しいクラブ活動」という取り組みです。初年度は公募で20名が集められ、今年度は13名の参加があります。年齢は60~77歳の高齢者です。

春から2~4回のワークショップを1回あたり2時間程度で実施し、その都度メンバーを募集して活動を続けていたところ、10月頃には「癌の緩和ケア」を題材にした寸劇をやってくれないかという依頼があり、参加者らとの相談の上でやることが決定したといいます。高齢の方にとって癌は非常に身に迫るものであるため、練習中に感極まって泣いてしまうこともあったそうですが、終了後にはスッキリした顔で帰っていかれたとのことです。また、この活動は当初の予定より大規模な活動になったため、参加者らにも大きな達成感になったといいます。最終的な発表では、高校生と60歳以上が混ざって「万病小唄」を歌いました。歌詞は全部、病気の名前で参加者らと作ったものでした。

熊本県立劇場での取り組みは、人材育成を目的とした研修事業としておこなわれました。当初は学校で実践できる人を育成する目的で3年間のプログラムが組まれました。その後、「アートの新たな可能性発掘プロジェクト高齢者編」と名前を変え現在へと至ります。実践は、「特別養護老人ホームくわのみ荘」と「介護老人保健施設フォレスト熊本」で行われ、毎回15~20名、年齢は68~100歳の方が集まりました。

くわのみ荘では、意識レベルがハッキリしない方の参加もあり、皆初めての参加者のような感じで進められました。一方で、熊本県立劇場としては、研修として行っていたということもあり、主な参加者(ターゲット)は高齢者ではなく、介護福祉士や職員などでしたが、柏木さんらは目の前のお年寄りの変化に注目しながらプログラムを実施しました。歌を歌っていると「民謡はやらんのか?」という声が参加者から挙がることもあり、柏木さんらが「やりません」と断ると、「あんた達は、言われたやつをやればいいんだ!」と怒られることもあったそうです。要望されたものをやるだけでは会話がなくなってしまうので、隣の人に振るなどして発言を促しつつ、会話を広げていくという工夫を柏木さんらは行っていました。そうしたことを意識して活動を続けているうちに、「また来い」という雰囲気になったそうです。

参加者の方からは、具体的な音楽づくりや、関わっている介護職員の方のその場での役割や態度の変容などについて質問があり、質疑応答が行われました。


3.「多様性を価値にするワークショップ」

山田小百合(特定非営利活動法人Collable/代表理事)

山田さんは大学院を修了した後、特定非営利活動法人Collableを設立し、活動されています。専門はインクルーシブデザインを応用した学習環境のデザインです。近年、Diversity(多様性)が企業の中でも言われるようになりましたが、一般的には女性、障害者などが、集団に存在すれば良いという認識に留まる企業が多く見られます。山田さんは、そうではない認識を持ちつつ、付随して言われるようになったInclusive(包摂的・包括的)の視点が必要とおっしゃいます。

Collableは、障害のある人と普通の人の境界に立つ、小さなコミュニティをつつむような仕掛けをする団体です。日本に約5%、20人に1人いる障害のある人と、「交流」するのではなく、単なる人間関係と同じように接することができるはずだという問題意識が組織の基盤にあります。山田さんらは、障害者とそうではない人の間にどのような関係をつくれるかということに対し、ワークショップという形式を用いて取り組んでいます。

山田さんは大学院の入学前にインクルーシブデザインに出会いました。インクルーシブデザインとは、高齢者や障害のある人など、特別なニーズを抱えるユーザがデザインプロセスに参加することでイノベーションを目指すデザイン手法です。そして、山田さんがこれまでに行ったワークショップをいくつかご紹介いただきました。

例えば、「見えない人とばんそうこうをデザインする」ワークショップは、観察する、問題を定義する、解決策を創造する、試作品にする(プロトタイプ)、テストするという過程で成り立っています。この活動で特徴的だったのは、参加者から、障害のある人のために何かをしてあげようという思考ではなく、グループメンバー全員にとって良いばんそうこうをつくろうという共通目標が立ち現れ、パートナーとなるプロセスが垣間見えたことだったといいます。

全盲の人とともに行った美術館でのワークショップもあります。全盲の人が他の参加者らが何の絵を見ているかを質問することで、参加者は鑑賞を深めることができます。障害者の鑑賞を助けるという発想ではなく、障害者が新しい示唆を与えてくれるという逆転現象が起こるのです。最初はどうコミュニケーションをとろうかとそわそわする人も、目的を達成するためのワークをする中でだんだん尊敬のまなざしが芽生え、コミュニケーション自体が面白くなっていきます。こうした参加者ら同士には一個人としての関係ができていると言えそうです。

こうした創造的な活動を子どものワークショップデザインに応用できないかと考えた山田さんは、修士研究で、CAMPのみなさんの協力の元、「くうそう・しょくぶつ・図鑑ワークショップ」を行いました。この活動では、健常の子どもと文脈をつくるのが苦手な自閉症の子どもが一緒にワークを行いました。最終的に彼らは互いに面白い共通点を見つけたようで楽しく活動を終わらせたようでした。1年後、自閉症の子どものお父さんから届いた手紙には、彼は「健常の子どもたちと毎日コラボし、彼の周りに他者が生まれている」ということが書き綴られていました。お父さんは、ただ環境に放り込むだけではなく、あるタイミングで環境さえ設定すればいろんなことができるということも書いてくれていたそうです。このことが、山田さんがCollableを立ち上げるきっかけとなったのだと言います。

さらに、柏木陽さんとともに、障害の有無を超えた多世代型のワークショップも行いました。柏木さんが取り入れた最初のワーク「だるまさんが転んだ」では、最初は引いて見ていた大人たちが、だんだんと子どもたちが遊ぶ姿になじんで交じってくるということが起こり、大人がいろいろな人と関わる上での子どもの可能性を感じたと言います。

そして、最近は、障害の有無にかかわらず、いろいろな異なる立場の人たちをコラボさせるようなワークショップを行っているとのことです。例えば、ミサワホームさんとの共同で、美大生と保育園児が絵本を作るワークショップや、さらにデジタルを取り入れ、発達障害の子どもと定型発達の子どもが一緒にデジタル絵本をつくるワークショップなどがあります。

参加者の皆さんからは、「協働で何かをつくる」という活動にこだわる点について質問が出され、議論が行われました。


4.「多世代がともに学ぶカフェイベント――『UTalk』を事例として」

宮田舞(東京大学大学院学際情報学府/博士課程)

宮田さんの発表では、UTalkというイベントをもとに調査した結果が報告されました。近年、成人学習活動に注目が集まっています。人々が生涯のいつでも、自由に学習機会を選択し学ぶことができ、その成果が適切に評価される社会(文部科学省, 2013)として「生涯学習社会」の構築の流れができつつあり、その中で大学の役割が問われています。現在の大学で担われているのは、オンライン大学など正課型のものと公開講座のような非正課型のものです。その中でも、サイエンスカフェのように継続して行われるものや、単発で実施される公開講座のようなものまで様々に行われていますが、学習動機や学習の様相などに関連した研究はごく一部であり、サイエンスカフェのような非正課型プログラムについては知見が少ない状況でした。

参加者の一部を構成する高齢者の位置づけについて、片桐(2012)では高齢者の社会参加を4つのフェイズに分類しており、高齢者は退職後、すぐにボランティア活動を開始するわけではなく、個人活動を経てグループ活動を行うということが知られています。このことから、高齢者個人が行う学習活動に焦点を当てた研究を行えることは、高齢者の社会参加の様相を捉えるためにも意義あることでしょう。そこで宮田さんたちは、大学主催の非正課型・継続型の市民向けプログラムにおける参加者の学習動機を調査しました(宮田ら, 2014)。そのフィールドとなるのが、大学主催のカフェイベントであるUTalkです。

UTalkは東京大学福武ホールが主催するカフェイベントであり、毎回15名程度がウェブから申し込み抽選を経て参加しています。イベントは毎月1回開催され、文系理系問わず、東京大学の様々な若手研究者がゲストを務めます。イベントには進行を務めるホストが同席します。

調査対象者は2014年9月までの参加者であり、そのなかで124名が分析対象者となりました。ウェブアンケートの主な内容は、フェイスシート・学習動機尺度への回答・学習内容に関わる自由記述ですが、今回の発表では主に学習動機尺度の結果を中心的に報告していただきました。

まず分析対象者の属性としては、男女比はほぼ半数でしたが、前期高齢者とみとめられる参加者8名はすべて男性でした。このことは、男性の方が申込みの媒体であるウェブに普段から接する機会が多いからではないかと推測されます。参加者らの学習動機を調査したところ、資格のため、職業に直結して来る人はあまりおらず、また、新たな友人をつくるという項目の平均値も思ったより低いという結果になりました。つまり参加者は友達が欲しいから参加しているわけではないということです。一方で、平均値が高かったのは「拡張的教養志向」であり、幅広い知識やものの見方を身につけたいとの志向の強さがみとめられました。

こうした結果が得られたことの考察として、①多様なものの見方や知識の獲得へのニーズ、②専門性に特化した学びへのニーズ、③交友関係形成に関するリスクの少なさがもたらす、異なる学習動機を持つ参加者の共存の3点が提案されました。UTalkはテーマが連続していないため、専門家が専門性を掘り下げる目的で参加するだけでなく、参加者らは回ごとに異なる様々なテーマに触れることになります。そのため必然的に、参加の目的が違う、質疑の質が違う人が集まり、毎回意識の齟齬が起こる場が自然と作られているのです。このことが、ゲストから学ぶだけではなく、異なる目的を持つ参加者から学ぶことにつながっていると考えられます。しかしながら、このように目的の違い人たちは何で一緒にいられるのでしょうか。そこに、基本的に人とかかわりたくないという志向が効いているのではないかと宮田さんらは推測します。先行研究でも、交友関係を形作る中で交友関係が悪影響で学習がストップするということに言及しているものもあり、そこにリスクを感じなくて良いというのが、ある意味でその場の多様性を確保する手段となっている可能性があるというのです。今回の調査結果は、あえて深いつながりに導かないことによる場の安全性という観点からも面白い結果だと言えるのではないでしょうかと、宮田さんは発表を締めくくりました。

参加者の皆さんからは、大学が市民への教養の提供だけで終わってしまっているのではないか、UTalkのテーマ設定や参加者像の想定とは、主催者と参加者と出資者の意図の違いについて等の質問があり、議論が行われました。


5.「高齢者との哲学対話――その可能性と課題」

梶谷真司(東京大学大学院総合文化研究科/准教授)

① 哲学対話とは
梶谷さんは、「共生のための国際哲学研究センター(UTCP)」のプロジェクト(Philosophy for Everyone)の一環として、大学内でイベントを行う以外にも、小学校や中高でも行いますし、福島、熊本などの地方やでも哲学対話の実践を行っています。哲学について説明するとき、高校生に対しては「問い、考え、語ること」、小学生に対しては「分からないことを増やすこと」と説明されるそうです。そして、哲学対話では、対話をするなかで、参加者が探究の共同体になります。

哲学対話のルールとして、梶谷さんは次の点を強調します。

・何を言ってもいい(つまらないこと、流れからそれていること等)。
・人を否定したり攻撃するような発言は絶対にしない。
・発言せずに、ただ聞いて考えているだけでもいい。
・お互いに問いかけることが大切。
・誰かが言ったことや本に書いてあることではなく、自分の経験に即して話す。
・ゆっくりていねいに話す。
・結論が出なくても、話がまとまらなくてもいい。

こうしてみなが、誰かに気を使ったり、否定されたり笑われるのではないかと心配したりせずに、思ったことを話し、お互いに問いかけていくと、自ずと考えが深まり、今まで気づかなかったことに気づいたりします。自分の経験に即して話すことで、年齢や職業、学歴など、立場の違いを超えて対等に話ができるようになります。話したくなければ話さなくていい、結論が出なくてもまとまらなくてもいい、とすることで、かえって自由な発言と思考が可能になるそうです。一般には、立場や境遇が近くて共通了解が多い方が、よりよい話し合いができると思われています。しかし、梶谷さんによれば、似た者どうしの対話ほどつまらないものはないそうです。基本的な前提が問われず、意外な発見もないまま、内輪の細かい話で盛り上がり、意気投合して終わるだけです。それに対して哲学対話は、参加者が多様であればあるほど、立場や視点の違いから自然に反省的、哲学的になります。そこでは、共に考えながら、それぞれが自分の問題として考えることが大切なのであって、合意に至ることは必ずしも重要ではないとのことです。

さらに哲学対話では、体験に基づいた話をする=必ずしも事前知識に基づかなくても良いということも重要になります。そのことによって、自分にとってどうでもいい問題について話さなくても良くなるのです。哲学対話では、意気投合して考えが一致することは基本的にはつまらないことで、それよりも一人ひとりが自分の問題として考えることが重要になってきます。一般的な問題について、参加者らが個々に考える中で考えることが楽しいと思えることが成果となります。

哲学対話ではコミュニティ・ボールという毛糸で作ったボールを使います。このボールを持っている人だけが話せて、それ以外の人は聞く、話したければ、手を挙げてボールを受け取るというルールで、これだけできちんと話してきちんと聞くということが自然にできるようになります。

第7回(梶谷先生)

また、梶谷さんは、哲学対話イベントの主催者側の意図は少ないに越したことはないと述べます。なぜなら、主催者側が考えさせたいことを押し付けるのではなく、参加者が皆で考えたい問いを自ら見つけて選ぶほうが、哲学対話のスタイルに合っているからです。

問いを提案するのではなく、皆で考えたい問いを選ぶのが哲学対話のスタイルだからです。梶谷さんの所属するUTCPのプロジェクトでは、大学外で対話をするときは、基本的にやりたい人がいたときにそれを援助する形でイベントを行うそうです。こちらの意向に参加者を付き合わせ、もって行こうとすると、参加者はすぐにこちらの意図を気にして話すようになり、自由な発言ができなくなります。そのためファシリテーションをやって、こちらが望む方へ考えさせてしまうことを梶谷さんは懸念しています。それよりも参加者に任せ、彼ら自身が共に考えることの方を大切にしたいそうです。

②「老い」という問題

さて、「老い」の問題を考えたとき、「もともとできたことができなくなっていく」ということが核心にあると梶谷さんはおっしゃいます。このことは、介護する・される関係を前提にしていますが、はたしてその前提を置いてしまってよいのでしょうか。そこには基本的に、「できない」から「できる」へとシフトさせようとする発想がありますが、そのためにいくらテクノロジーを用いようともいずれはできなくなるため、「できない」という問題は先送りにされるだけで、消えはしません。

「できない」が問題化される背景には、「できる」ことを基礎とした社会があり、「できる基準」において私たちができないことを問題としてみなしているという現実があります。つまり、「できない」ことは社会的に作られているのです。では、「できる」とはどのようなことなのでしょうか。「できる」ということは、何にも依存しないことではなく、当事者研究で著名な東大病院の熊谷晋一郎さんが言うように、むしろより多くの依存先があることとしても捉えられます。しかし現実にはそのように捉えられてはいません。

この「できない」をめぐる問題において「老い」とは1つの可能性であると梶谷さんは述べます。老いは誰にでも当てはまる一般性をもつものであり、できないことは誰にでもあてはまり得ることです。一方で老いに差し掛かる時期は人によって異なるなど、老いには個別的な側面もあります。そこで必要となるのが、自分の問題を自分で考える、それぞれの立場の当事者による探究です。高齢者の施設でも、高齢者ら自身が何をしたいかは実はあまり聞かれておらず、彼らが本当は何をしたいのかは必ずしも問題になっていません。このことは、障害を持っている人が、自分の苦労を健常者に奪われているという、「べてるの家」の向谷地育良さんが言うことにも通じます。自分が引き受けることのできる苦労を、他者によって取り除かれてしまうことは、自分の問題を自分で考えられないことでもあります。こうした現実について個々人が探究することが、高齢者にとって生きやすい社会=いろんな人のいろんな「できない」を許容する社会=普通の人にとっても生きやすい社会につながっていくのではないか、と梶谷さんはおっしゃいました。

「老い」はこれまでマイナスの規範として捉えられてきました。「老いの破壊性」として鷲田清一氏は、老いとは既存の価値や規範の外部にあるものであると捉えます。そうすると、高齢社会はこうした規範の外部が膨張し、内部への浸食が起こっている事態であると言えるでしょう。こうした状況では、「できない」ことは普通になっていきます。このような既存の価値や規範の根本的な問い直しを迫るのが「老い」がもつ哲学性であると梶谷さんは考えます。「できない」ということが哲学的な問いになり得るのです。

では、「できない」ということはどのような問いになりうるのでしょうか。例えば次のような問いがあり得るでしょう。

・できないことはなぜ「できない」とされるのか

・できないことが問題にならない状態はどんなものか

・できないままでいいということはないか

・できなくなることでできるようになることはないか

こうしたことを各自の問題として考えていくために、対話による学びが有効だと梶谷さんはおっしゃいます。

高齢者の学びの現状を考えると、公開講座や市民講座でも学びが例として挙げられますが、これらは基本的に既存の知識の吸収だと言えます。彼らは何のために学ぶのでしょうか。「できる」ようになるためでしょうか。老いを引き受けていくことこそが重要なのではないでしょうか。

③ 高齢者と哲学対話

梶谷さんは、日野市の「百草団地ふれあいサロン」で高齢者らを対象に哲学対話の実践をされていますが、その中で得た気づきも多くあったといいます。もともと高齢者は、普段自分の話を聞いてくれる人がいないせいか、一方的に話して相手の話を聞かないことがあります。それに若い人との間だと、お互い話が通じないと思うことが多いでしょう。若い人は、上から説教され、お年寄りは若い人の話についていけない。どちらにも分かり合えないという思いがあります。しかし哲学対話だと、きちんとお互いの話に耳を傾け、違うからこそ面白い、考えさせられる、感銘を受ける、といったことがどちらの側にも起こるのだそうです。確かに自分の言うことに固執して人の話を聞かない人がいます。駒場祭には年配の人もたくさん来るのですが、そういう人は間もなくいなくなります。いくつものセッション、ないし連日来る人もいますが、そういう人は変わっていき、しっかり聞くようになります。

また、とくに女の人がそうなのでしょうが、自分の言いたいことを人前で言うなどということは、これまでの人生の中であまりなかった人もいます。梶谷さんが福島で対話をした時ですが、振り返りの時に「こんなに幸せな気持ちになったのは、人生で初めてだ」と言ったおばあさんがいたそうです。大げさなのかもしれませんが、人前で自由に話し、自分の言うことを聞いてもらった、みんなで一緒にじっくり考え、自分が思ったことを言い、それをみんながちゃんと聞いてくれた、その充実感、解放感ではないかとのことです。

梶谷さんは、対話の際、できる限り少数派を排除しないようにするそうです。例えば、子連れでも来て気兼ねなく参加してもらえるように、子供が騒いでも泣いても、できる限りその場にいて対話を続けられるよう、お母さんにも、他の人にも協力を求めるのだそうです。そもそも子供がいるということが当たり前なのであって、子供がいないところでないと対話できないというのはおかしいし、子供が泣き叫ぶ中で哲学的な問題についてみんなで考えるということは、いつもと志向のテンポも変わり、それ自体が面白い体験になるのだそうです。

梶谷さんのご講演の後、参加者らは2グループに分かれて、哲学対話のワークとしてもよく用いられる「質問ゲーム」を行いました。質問ゲームでは、ある質問に対して一人が回答し、他のメンバーはその人にひたすら質問だけをします。一人の回答者につき決まった時間これを行い、終わったら次の人に代わり、それを全員がするまで続けます。この日は、両グループとも「自分が年をとったと思うのはどんなときか」という質問をもとに、ゲームを開始しました。参加者のみなさんは、質問をするたびに他者の新たな側面が見え、いつしか他者理解を超えて共通のテーマや問題について考え始めようとしていることを楽しんでくださったようでした。


今回の公開研究会は、梶谷さんの発表をメインとし、あわせて5つの発表がありました。どれも実践の形態として異なる部分と共通する部分があり、「高齢者」を軸に様々な実践が位置づけられる可能性を感じました。さらには、本研究会では「老いること」「できないということ」「多様であること」「一緒にいるということ」等、今後様々に議論すべきテーマが浮かび上がってきたことが印象的でした。こうしたテーマについて、高齢者のみなさん自身がどのようなことを思い、さらには高齢者を含めた多世代での対話においてどのような意見交換がなされるのかということにも大いに関心を抱きました。

〔アシスタント:宮田舞〕